わたしの閾(いき)

映像業界。あまり元気じゃありません。ブログタイトルは保坂和志さんの小説『この人の閾』から。

ラブレターが書き終わらない

 

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2019年の8月。

 

僕のしがない三十数年の間でラブレターなど書いたことは一度もなかった。もっと言えば、実に男らしくその手の行為からまっすぐ逃げてきたつもりだった。

 

でも事情が変わった。

恥ずかしながら書いてみたくなった。

 

心変わりの理由は結婚である。今の僕は、夜な夜な婚姻届の書き方を勉強し、週末には先方のご実家を訪ねて、お義父さんに例のやつを言う儀式を控えている身なのだ。

例のやつ。あんなことを言う日がまさか自分にもやってくるとは。すでに相手のご両親とは一度お会いしているので、実はあまり緊張はないのだけど、これは自分の悪い癖かもしれないが、僕は妙に意気込んでしまっているのだ。この儀式で自分は、自分の人生のけじめをつけないといけない、パートナーとその家族に一生愛していくと伝えねばならない、と。手紙にするにしろしないにしろ、こういった純粋に思いを伝えるものが世に言うラブレターなのではないかと思った。発想が重い。言うまでもなく、結婚への向き合い方には人によって多種多様だ。だが僕の場合は、どうも気軽なものではないらしい。披露宴会場で涙ながらに親に語ったりはできないだろう。「こんなこと思うもんなんだな自分は。」と気づき、自分の根深いところの複雑さに、少しかわいそうに思う。だから僕のラブレターはきっと、射程が広く、悪く言えばなんともぼんやりとしたものになるだろう。

 

放っておくと際限なくて頭は働いて考えがブツ切れになりまとまらない。スーツはどこにあったっけ、手土産は何が喜ばれるのかな、お仏壇に供えるなら日持ちする方がいいな。新しく住む物件はいつ決めることができるんだろう。本籍地どこにしたらいいんだ。転勤族だからか場所に思い入れがないんだよな。あー、お義父さんのお気に入りのウィスキーを買い忘れた…。

 

僕には父がいなかった。正確には僕が小学校高学年のときに両親は離婚している。父は酒に借金に女に暴力と、男の悪いところのバーゲンセールみたい人だったと聞いている。両親の関係はもつれにもつれたので、今、父の話題が家族の中で上がることはほぼない。

頭の上っ面をいくつもの考えがするすると滑り流れていき、そのどれもがこれからの未来のことで美しく堅実だ。でもそのきらきらした流れの奥底で滞留してるいろいろな気持ちや思い出があることに、改めて気づくことが最近多い。有り体に言って、家庭というものがよくわからない。ほんの少しだが不安だ。いい夫、いい父に、僕は絶対になると自分に言い聞かせる日々。自分が守れる範囲を見極めて、粛々とすべきことをこなしていく。こんな宣言で人の子をもらうことなんて出来るんだろうか。

 

つくづく要推敲だ。

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